ミャンマー人の歴史の始まり
北部では7世紀にピュー人がピュー(驃)を建国した。
ミャンマー中央部への移動
832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。。9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国(9世紀 – 1057年)が建国された。
初の王朝
現存する王朝の出土品から初めて実在が確認される、王統史の言う「44代目」のアノーヤター(1044年 – 1077年)が最初の王とされる。
アノーヤターは四方に軍を進めて領土を広げ、南方のモン族のタトゥン王国の都モッタマ(現在のタトゥン地区にある)を制圧した際には、モン族の文化を取り込んでビルマ文化の構築に貢献した。
また、国内の統制を高めるために密教的な要素の強い大乗仏教僧と見られるアリー僧の排除に取り掛かり、国を上座部仏教本位に変えた。
魔力によって民衆に影響を及ぼすアリー僧を弾圧することで、民衆との連帯を強化したのである。
アノーヤターの名前が刻まれた磚仏は彼が実在の王であることを示すとともに、その出土地は彼が築城したと王統史に記録される城砦とほぼ一致しており最初期のパガン王朝の支配領域が推測できる。
1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。
パガンは最初小さな城市であった。王統史のいう「44代目」のアノーヤター王(在位1044年 – 1077年)が初代国王とされる
独立と軍事クーデター
1886年6月、英清ビルマ条約でイギリスは清にビルマの宗主権を認めさせると、ビルマはイギリス領インドに併合されて、その1州となる。
国王ティーボー・ミン(在位:1878年–1885年)と王の家族はインドのゴア州ボンベイの南に近いラトナーギリーに配流され、その地で死亡した。
1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。しかしその後の軍事クーデターにより軍政に変わる。
軍政の終焉
1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。
同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。
総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。
軍部は国民統一党を結党し体制維持を図った。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。
以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊
初の民主主義政権
2015年11月8日、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、NLDが圧勝した。
NLDは党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、
ミャンマー連邦共和国憲法(英語版、ビルマ語版)の規定と国軍の反対によってそれはかなわず、
次善の策としてスー・チー側近のテイン・チョーを自党の大統領候補に擁立した。
軍事クーデター勃発
2021年2月1日選挙後初めての国会招集日の朝、国家顧問や大統領等がミャンマー国軍による軍事クーデターにより拘束。
非常事態宣言が出され、国軍が政権を奪取。
国内では市民デモが行われ、軍の弾圧が勃発。
その後国内の市民は失業などにより苦しい生活が繰り広げられている。

参考:根本 敬の物語 ビルマの歴史 – 王朝時代から現代まで (中公新書)、軍政ビルマの権力構造―ネー・ウィン体制下の国家と軍隊1962‐1988-地域研究叢書-中西-嘉宏、wiki

一般事情

1 面積

68万平方キロメートル(日本の約1.8倍)

2 人口

5,141万人(2014年9月(ミャンマー入国管理・人口省発表))

3 首都

ネーピードー

4 民族

ビルマ族(約70%)、その他多くの少数民族

5 言語

ミャンマー語

6 宗教

仏教(90%)、キリスト教、イスラム教等

7 国祭日

1月4日独立記念日

政治体制・内政

1 政体

大統領制、共和制

2 元首

  • ウィン・ミン大統領
  • (2018年3月30日就任)

3 国会

二院制

  • 上院(民族代表院) 定数224(選挙議席168、軍人代表議席56)
  • 下院(国民代表院) 定数440(選挙議席330、軍人代表議席110)

4 政府

(1)元首ウィン・ミン大統領(2)国家最高顧問、外相アウン・サン・スー・チー(3)副大統領ミン・スエ(4)副大統領ヘンリー・ヴァン・ティオ(5)下院議長ティ・クン・ミャ(6)上院議長マン・ウィン・カイン・タン

外交・国防

1 外交基本方針

 非同盟中立 1997年7月ASEANに加盟

2 軍事力

(1)予算23.5億ドル(2019/20)(2)兵力40.6万人(2020年版ミリタリー・バランス)

経済

1 主要産業

農業、天然ガス、製造業

2 名目GDP

約772億ドル(2020/21年度、IMF推計)

3 一人当たりGDP

1,441ドル(2020/21年度、IMF推計)

4 経済成長率

5.7%(2020/21年度、IMF推計)

5 物価上昇率

6.2%(2020/21年度、IMF推計)

6 失業率

約4.0%(2020/21年度、IMF推計)

7 総貿易額

(1)輸出約171億ドル(2)輸入約181億ドル

(ミャンマー中央統計局(2018/19年度))

8 主要貿易品目

(1)輸出天然ガス、衣類、米、豆類、鉱物(2)輸入機械類、精油、製造品、化学品、食品

9 主要貿易相手国

(1)輸出中国、タイ、日本、米国、インド、ドイツ(2)輸入中国、シンガポール、タイ、インドネシア、マレーシア、インド

(ミャンマー中央統計局(2018/19年度))

10 通貨

チャット(Kyat)

11 為替レート

1ドル=1320.9チャット(中央銀行レート)(2020年12月1日)

12 経済概況

  • (1)1962年に発足したネ・ウィン政権は、農業を除く主要産業の国有化等社会主義経済政策を推進してきたが、この閉鎖的経済政策等により、外貨準備の枯渇、生産の停滞、対外債務の累積等経済困難が増大し、1987年12月には、国連より後発開発途上国(LLDC)の認定を受けるに至った。
  • (2)1988年9月に国軍がクーデターにより軍事政権が成立し、社会主義政策を放棄する旨発表するとともに、外国投資法の制定等経済開放政策を推進したが、非現実的な為替レートや硬直的な経済構造等が発展の障害となり、外貨不足が顕著化した。欧米諸国は、軍事政権によるアウン・サン・スー・チー氏の自宅軟禁措置及び人権侵害等を理由に、経済制裁を実施し、段階的に強化。ミャンマー経済は更に低迷し、国民生活は困窮を極めた。
  • (3)2011年3月、民政移管により、テイン・セイン政権が誕生。同政権は、外国投資法の改正、中古自動車の輸入自由化、為替レートの統一、国内外の民間銀行・保険会社への段階的な市場開放、証券市場整備等の経済改革等を進めた。それに伴い、エネルギー、通信、製造業、不動産等の分野において、外国投資が活発化しており、2012年以降、毎年7%前後の安定した経済成長を達成している。
  • (4)欧米諸国は、ミャンマーにおける民主化の進展を評価し、米国は2012年11月に宝石一部品目を除くミャンマー製品の禁輸措置を解除し、2013年4月にEUが、2016年9月に米国が、武器禁輸措置を除く対ミャンマー経済制裁を解除した。
  • (5)2016年3月に誕生したアウン・サン・スー・チー国家最高顧問率いる現政権は、外国投資を歓迎し、規制緩和を志向する姿勢を示し、同年7月、新経済政策を発表。18年8月、ミャンマー持続可能な開発計画(MSDP)を発表。新投資法及び新会社法を制定し、外国投資をより促進する仕組みを整備しつつある。